>>10
数教協の暴走と銀林先生は関係ないじゃん、と、あえて指摘しておきましょうか。
むしろ、
『 しかしそのためには、「なんでこんな簡単なことができないのか」といった数学教師特有の感情を押し殺して「つまづき」を客観的に冷静に眺めてみなければなりません。教師 v.s. 生徒という状況を離れた第三の「分析者」としての視点に立つことが要求されるのです。あるいは、1個の石器や資料(子供の答案)を前にした考古学者の眼をもつのだ。あるいは、一匹の対象動物(子供自身)を観察しつつある動物行動学者の立場に立つのだといってよいかも知れません。』
あたりのクールな視線は遠山梁山泊の真骨頂、という感じはします。
どーせ算数なんか四則計算ができれば御の字なんだから、そこはちゃっちゃと済ませてしまってその先を考えようよ、みたいなプラグマティズムが根底にあるような気がします。
「量の理論」は物理数学を含めた応用数学の基礎、米国流の「新数学(ニュー・マス)」なんかじゃなくって、日本には実用算術の伝統があって、それが文化として成立してるんだから、そこを(その先の応用を含めて)捉えなおせるように(たとえばタイルのシェーマとか1あたり量とかで)すればいいんじゃん?ってな話だと思うんですけどね。
正直なところ、「子ども」とかいう言葉がイヤ。「障がい者」とかいった言葉がイヤ。出版社とかだったら使わざるを得ない、というその時点でイヤ。
四則演算の習得と子供の人間性はなんの関係もない。算数は必要悪。それでよくないですか?
「ゴミの山の前は鼻をつまんで走りぬけるしかない」。by鉄のクラウス。
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