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阿部さんの『千尋』論、まずはざっと拝読。
時間をかけて細部をもう一度たどってみたいと思います。
阿部さんが指摘した、『トトロ』の抽象性の問題ですが、僕もたまたま参加している竹書房の「クリエイターズファイル 宮崎駿の世界」で対談の席に出てきている鈴木敏夫さんが『トトロ』の成立について非常に興味深い発言を行っており、阿部さんの指摘とまさに照応すると思うので、ぜひ一度読んでみてください。
端的に言えば宮崎駿さんが始めやりたかったのはお化けの「具体性」の方であり、映画の方法論として結果的に「抽象性」を入れ込んで作ったのだということです。それを鈴木さんは「文学的」と表現しています。
阿部さんの文章に戻れば、この「文学性」が次作『魔女の宅急便』以降の宮崎アニメを変えていったのだろうと思い、なるほどと発見がありました。
僕が小黒さん交えての対談の席で『トトロ』を評価したのは、ひとつにはミヒャエル・エンデ『果てしない物語』の映画化作品におけるラストにみられるような、ファンタジーが現実にいとも簡単に介入することへの無神経が、『トトロ』にはないということへの賛同だったのだと思います。それは『E.T』のような子ども時代への正当化とも違い、あくまでトトロとの出会いを通過点として捉えているということにも通じます。
しかしそれは、同時代的思考の中での話であって、いまから考えると宮崎さんという作家の作品という文脈ではさして本質的なことではなかったのかもしれないとも、鈴木さんのお話を読んで思っていたところでした。
『トトロ』に肯定的なもうひとつの理由は、あの作品に仕掛けられた数々の、たとえば阿部さんだったら弁当箱の中身に見出すような、あるいは絵本のトロルと重ね合わせるというような、現代の女の子が見て入っていきやすい工夫が、仮になかったとしても、十分な体験性を、ノスタルジーではなく「生きた」ものとして持っているのだということです。それはクリエイターズファイルの中で自分が書いた原稿で展開されていますので、併せてご一読くだされば幸いです。
http://www.gont.net/risaku/krdsh.shtml
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